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核家族のかなしみ

6か月、もうじき7か月の娘は、ちょこちょこと風邪をひいたり皮膚炎になったりしながらも、つよくたくましく生きている。ほがらかそうに、時に意地悪っぽく(これはわたし似)わらうところをみていると、困ることなんてないよな、と思う。

 

小学生のときに、過疎化についての本を読んでいて、おばあちゃんにいったことを今でも覚えている。「わたしは都会にはいかないよ! ずっとここにいる。」そういったのにな。いつか帰っておばあちゃんと子育てするつもりだったんだけどな。ごめんね。

 

その気持ちがずっとどこかに残っていて、いまでも、都会で子育てすることそれ自体にひっかかる部分、反抗的な部分がある。うちの前は公園なんだけど、そこに綺麗な格好をしたおかあさんたちがこどもをずっと見ているのをみて「えっ、子どもだけで遊ばせたらダメなの?」って勘違いしたり。そろって紺色の、制服みたいなお迎えのお洋服を着た付属校の保護者たちをみて「?」となったり。でも一方で、のびのびやればいいんだ、ということがひたひた、波のように足元から安心と一緒になってやってきて、落ち着いてる部分もある。いつだって気持ちはあいまあいま、だ。

 

わたしは実家は遠いけどやりとりは多いし、義理の父母は電車で約1時間のところだから、かなり恵まれていると思う。行き来も多いしね。でもときたま、誰かがずっと家にいて、一緒に育ててくれたらなと思うことがある。

 

子育て中の主な養育者は、子どもとわたしが世界の中心だ。仕事をしてきた人なら特に、この子を育てる、ということが、ミッションのように感じられることがあるだろう。まるまる1日のなかで、ほんのささいな成長もあれば、失敗もあるし、悲しい事、やりきれない瞬間、どうしたらいいかわからないこと、、そういうことが、山のようにある。仕事だったら同僚も上司もいるし、みんなで舟に乗れる。もちろん家族だって同じ舟に乗ってるんだけど、いかんせん同じように一緒にいるわけではない。となると、そういう山のような微細な感情の動きを、誰かが見てくれる、ということが、核家族だとありえない。たとえば同居している誰かがいたら、ずっとはいなくても、人の気配が家のなかに残る。その気配がわたしをみてくれる。でも、大人ひとりだと、家を満たすのが自分の空気だけしかない。いきおい、人の気配がほしくて、デジタルなものやメディアに頼ることもある。

 

一緒に住む人は、別に子育ての方針が合わなくてもいい。彼女との違いで自分を発見するから。できれば女性がいい(気づくポイントや共感力は、やっぱり性別が同じ方がいいとわたしは感じてる。)。世代が違うほうがいい。子育ての常識なんてすぐに変化するってからだでしみてわかっている人のほうが、こっちも気がらくだ。要するに自分を外から見る視点がほしいのだ。

 

もうひとついえるのは、子育て中のおかあさんたちは、ひとりひとりが小宇宙のようなもので、自分のこどものことをやっぱり一番に考えてしまうものだってこと。太陽系における太陽みたいなもの。だから、太陽に合った星の配置になるし、その子に即した行動や対処になる。一般解はない。誰かと比べても無駄。だからこそ、「うちの子にこれでいいかな?」とおもったときに「いいんじゃない」と、背中を押してくれる子育ての先輩にいてほしいのだ。夫はもちろんのこと、親とか義理の両親に対しては、子どものことを相対化する必要がない。自分の子にとって一番の選択肢はなにか堂々と議論できるし、自分なりのあり方について話し合える。子育てって本当に、正解がないからね、、、仕事の仕方、人生の運び方と同じだと思うんだけど。王道はある。わたしは美しいかどうかを基準に考えますとか、健やかさを大切にとか、人生の全部が出る。

だからこそ、一緒になって、「この子」を中心にしてくれる会話をしたいのだ。もちろんわたしは夫とはそれができているし、義理の両親も実の親もみんな優しい。でももし一日に一回でも顔を見て、今日はこんな感じだね、ぐらいの行き来があったら、どんなにかいいだろうと思う。その瞬間だけは「この子」100パーセント、であるような時間。そうして同じだけ「わたし」100パーセント、の時間があるといい。一週間に2時間ぐらい、それがここにあるといい。

 

そんなわけ(だけでもないけど)ご近所さんがいっぱいいる、近くの長屋に引っ越すことになった。二年間暮らしたいまの家に、ゆっくりじっくりさよならと感謝を伝えているところ。